楽器屋探索ディープレポート Vol.14
楽器店の中の人に話を聞いてみた〜 Disc Jam渋谷シスコ店 3/4 編
このコーナーは、楽器店でミュージシャンをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューしてお話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。
オーディオ・楽器を売りまくるバイト時代
決断が早いです! DJをやめた後の続きを教えて下さい。
ディスコで仕事をしているとき、静岡のレコード店『すみや』(※静岡県を中心に全国チェーン展開していた音楽・映像ソフト店。2010年TSUTAYA傘下となり事業終了)の楽器部の人が「おまえ、そんなことやってるなよ」と、僕を着の身着のまま『すみや』の富士支店へ連れていき、店頭で『ONKYO』というブランドのオーディオを販売するアルバイトをさせられた。なにより、すみやに入社できる事は僕の夢だった。僕は、高校を中退していたから、すみやで働けるとは思ってなかった。
それは嬉しい強引な引き抜きでしたね。
18か19才頃のある日、ONKYOからオーディオ機器の販売目標を課せられた。その予算(売上目標)をクリアするのは到底無理と思われる数字だったが、その月は予算の倍くらいの売り上げちゃったんだ。
どうやって売ったのでしょう?
当時、ステレオはパイオニア、ソニー、ビクターが主流だったけど、ONKYOは、スピーカーの音がすごくよかった。音質のいいレコードを用意して、ONKYOの時だけ、そのレコードで視聴してもらったんだ。ONKYO以外のステレオではしょぼい音質のレコードで視聴して頂いた(笑)。
ミュージシャンでもあり商売人でもありますね。
僕は、15歳のときスーパーの八百屋で丁稚奉公として働きながら定時制高校に通っていた。冬の寒い時にしもやけを作りながら、一把2円の細ネギが半分腐っていたら半分抜いて腐ってない細ネギと併せて売ったりしていた。だから、金額が安いものでも商売に対する意識はとても高かったんだ。
阿部さんの原点の一つであるような気がします。
19才の時にONKYO本社から「社員待遇にするから本店で働いてくれ」と言ってもらったんだけど、それと同時に、すみや富士店の店長から「楽器部の主任が辞めるから楽器部で働かないか?」と誘われて。待遇的にはONKYOのほうが良かったんだけど、すみやの楽器部に異動することになってしまった。
19才にして大きな決断の場面です。
当時、バイト先の楽器コーナーは大半がエレクトーンかピアノで。もっとLM楽器を増やしたいなと思った。でも、アルバイトだったから難しかった。売り場で、弾けないキーボードをいじっているうちにブルーノートスケールを覚えちゃった。これがキッカケで、店頭デモ演奏するようになった。
アドリブ演奏でシンセサイザーを実演販売
現場で貪欲にスキルあげていきましたね(笑)。
そうしているうちにシンセサイザーの新商品がどんどん発売されて入荷されてきて、ローランドの『CSQ100』(※リアルタイム入力型のデジタルシーケンサー。1979年発売)と『Dr.リズム』(※1979年、BOSSから発売されたリズムボックスDR-55)をシンクロさせて、覚えたスケールを使ってアドリブ演奏で実演販売してバカバカ売ってたよ。そうやって、楽器売り場を少しずつ充実させて、同時にドラム教室も開いて最大60人くらいの生徒を受け持ってた。中にはプロになってチャゲ&飛鳥でドラムを担当した生徒もいたよ。譜面がよめない先生だったけど(笑)
販売から講師まで…、多才すぎですよ。
ところが売り場に勝手にエレキギターとかを増やしていたら、支店長にこっぴどく怒られた(笑)。だったら、そのギターをどんどん売ればいいんだと思い、バンド人口を増やして、近所の富士市文化会館という2,000人級のホールでアマチュアバンドコンサートを開くことにしたんだ。
営業活動としてのイベントですね。しかしキャパが大きすぎるような。
それが50組ものバンドが集まっちゃって。朝から夜まで開演したとしても全バンドが演奏する時間がない。それで、1バンド2曲までにして1バンドにつきチケットを100枚売ってくるようノルマを課したね。
ここでも商売魂が炸裂です。
みんなチケットも頑張ってさばいてくれて、おかげでライブ当日は2,000人のホールが満席ですよ。その日はPA搬入して、音作りもやって、ステージの司会もやってた。このコンサートイベントは2年くらいでポプコン(※ヤマハが主催していた音楽コンテスト)東海大会が富士文化会館で開催されるまでに発展したよ。店舗の楽器販売の仕事でも、パブやスナックへ機材修理に行った時に、新しい機材をすすめて、当時、1セット100万くらいするPAを売りまくったりして、ヤマハの東海エリア売り上げNo.1まで上り詰めたんだ。
この時点で「営業マニュアル本」が出せますね。
とにかく社員になりたかったから頑張ってたんだ。僕を含め4人のスタッフの売り場で月間売り上げノルマが2,000万円。うち僕ひとりで1,000万円は売り上げていてた。しかも、バイトの僕が主任の代行をやっていた。それをみて店長も僕を認めてくれて、いざ社員入社試験を受けることになった。
夢だった、すみやの社員になるのですね。
いや、普通教育の4教科ができなかったせいで、結局社員にはなれなかった。
えーー!
五十棲淑朗氏(エレキの神様「寺内タケシ」の師範代)と『文化屋楽器店』をオープン
無慈悲すぎる、すみや入社試験からの続きをお願いします。
その頃、『五十棲淑朗』(現在、寺内タケシの師範代)という男と知り合い、彼は寺内タケシのコピーバンドをやってる天才ギタリストで、かつ、しゃべらせればビートたけし級という逸材。ある時、日曜日の仕事が忙しい時に、突然五十棲君から「シンバルを買いたいから営業しにきて」と言われて、「二時間で帰りますから」と、店長の制止を振り切ってシンバル一式を運びだしたんだけど、なぜか機材車に乗せられて「今日のライブでドラムがいないから叩いてくれ」って頼まれ、結局、叩いたんですけど「シンバルはまた今度買う」って言われてギャラを1万円もらって終了したことがあった。
…という無茶振りする方なのですね、五十棲さん。
その五十棲君と僕は、ある日同時に「楽器屋を一緒にやらない?」っと同時発言!。本当に2人ともピッタリのタイミングだった。僕も22歳で、もう「すみや」の社員にはなれないことがわかり、共同経営でやってみようと決意し『文化屋楽器店』という今も富士市にある楽器屋をオープンすることになったんだ。僕は店名の名付け親でもあります。
文化屋楽器店さんは、静岡ではとても有名な楽器店ですよね。
それで、自分の努力で作り上げた売り場なのに社員にしてくれないから「ゲリラ作戦」に出た。すみやを辞める3か月位前から、入りびたりの不良学生(笑)などに「買うならもう少し待って!今度俺が向えに楽器屋をオープンするからそっちに来いよ!」って言っておいたら、オープン初日からお客さんがドバドバ集まってみんな買ってくれた(笑)。本当は直ぐに買いたい楽器が有る子達が「わざわざ先延ばしして待っていてくれた」これには男泣きしちゃいましたよ。
それ商売的に危険な匂いがしますね(笑)。
それから8年後、色々あって、五十棲君とは決裂することになってしまったんだけどね。お金も一銭も受け取らず経営権一切を彼に譲ったよ。
すみやから続いた楽器屋の仕事は一息つくのですね。
新しい楽器屋を開業するつもりではいたけど、しばらくPAの仕事をやってたね。FMラジオのプロデューサーが毎回僕を使ってくれるようになって、テレビ局やラジオ局からの音響の仕事もやるようになってたね。
続々とつながっていきますね。
だるまの墨絵で有名な浜松市の奥山方広寺住職が亡くなられた時や、静岡銀行頭取が亡くなられた時など、政治家や大物が一斉に集まるような告別式の音響も担当しました。奥山方広寺の住職の葬儀は、なんと石原プロモーションが取り仕切っていました。
PA仕事には告別式のような現場もあったのですね。
けっこうな額のギャラをもらって資金ができたので、90年に『阿部楽器』というスタジオも揃えた店を静岡市に開店した。そして、同年、シェリル・リンの静岡公演をうちの仕切りでやることになり、これを皮切りにクール・アンド・ザ・ギャングやアース・ウインド・アンド・ザ・ファイアといった、自分の好きなソウルミュージシャンと仕事ができるようになっていった。もちろん、音響、照明、楽器/企画、ともに全部当社でやりました。
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